全部あった方がええんでないか?

「泉北コミュニティ」の「もうすぐ創刊50周年! 泉北こんなことがありました!⑩」より。


墓地移転を断念 地元猛反対「動かすとバチが…」 1978年(昭和53年)

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泉北ニュータウン内に現在、7か所の墓地が残っているが、ニュータウン開発計画では、鉢ヶ峯の公園墓地などにすべて移転させる予定だった。しかし、地元住民らは「掘り起こしたりすると、先祖のたたりがあるかもしれない」などと猛反発。移転交渉は難航し、府企業局も「地元住民の精神的ふるさとともいえる墓地を、強い反対を押し切ってまで移転できない」と、昭和53年に計画断念をした。〔松本〕

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ニュータウン区域には、昔からの地元共有などの墓地が9か所あった。田園(三原台)高倉寺(茶山台)添尾(同)野々井(桃山台)平田(同)檜尾(赤坂台)伏屋(新檜尾台)美木多(鴨谷台)放光寺(城山台)の各墓地で、このうち高倉寺と放光寺墓地は、それぞれの境内に移された。ほかの7か所約6400基(昭和53年当時)は残された。

ニュータウン開発の当初計画では、墓地はすべて移転して、跡地を公園や宅地にすることにしていた。企業局では、これら各墓地の血縁者を調査する一方、堺市との協議で鉢ヶ峯公園墓地の半分を受け入れ地とし、移転交渉を進めた。しかし、地元の猛反対で移転計画は難航。高倉寺の仲村住職(当時)は「お墓は人間なら誰でもいずれ行く場所。もっと生活に溶けこませる考え方はできないのか」と、墓地を邪魔物扱いする開発姿勢を批判していた。

企業局でも「やはり信仰の対象だけに、手をつけるのは無理」「墓地全体の同意を得る必要があり、1基でも残るなら無意味」「無縁仏は移転前に公示しなければならず、ぼう大な手間がかかる」と、ついにギブ・アップ。

移転計画を断念したが、こんどは墓地周辺のニュータウン住民から「迷惑だ」と反発の声があがった。このニュータウン住民との交渉も長引いたが、植樹など墓地周辺の修景工事を行うことで、やっと説得。茶山台と赤坂台では修景工事だけでなく〝迷惑料〞として集会所と広場もつくった(昭和58年)。集会所は現在、それぞれ茶山台3丁東部自治会館、赤坂台5丁自治会館になっている。

★この記事は1989年9月21日号掲載。(「泉北コミュニティ」2019年9月5日号)


我が家の近くにも、ニュータウンの中に不思議な感じで現れる共同墓地があり、なかなか興味深いのだが、ここにはそういう経緯があったのだ。(*'ω'*)


それはさておき、老人ホームも保育施設も火葬場も、児童自立支援施設も、迷惑だから(よそならいいけど)うちの近くには要らないと排除されるのでありました・・・。

泉北コモンズ(仮)

「コモンズ」のコモンには、”顧問”と、”common(共有の/共同の)”を掛けています。 泉北に暮らす人たちの顧問'sになれるように、泉北に興味がある人たちの共有地(commons)になれるように、コモンの輪を少しずつ広げていきたいと思います。 あなたもよければ、泉北のまちの住民、応援住民、ふるさと住民、そして私たちの仲間になって下さいませんか? 2040年代の泉北は、自分たち/D!Yで創る

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