人も社会も退化しているのか
泉北の誇る地域紙「泉北コミュニティ」の、昔をふり返る記事はいつも味わい深い。(確かによく突っ込んでいますが、嫌いなワケがないじゃないですか! (๑′ᴗ‵๑)。レスポンスがないのが一番、寂しいことですよね(;∀; )。←ツンデレみたいなもんか(笑)。
ひるがえって行政は、私たちが納める税金と届ける票へのレスポンスだから、ほんとはもっと丁寧かつ真摯なコミュニケーションが望ましいとは思うけれども…。*´з`)
3月14日号の下記の記事も、インパクト大だった。
「保育所を早く作れ」 ~若松台や宮山台など ウーマンパワー爆発 堺市へ連日陳情~ 入居当初の1971年
若松台の「公立保育所設置の会」の主婦らが昭和46年(1971年)6月29日、「公立保育所を早急に建てろ」と市に陳情した。110人の主婦が幼児や乳児をかかえて陳情に押しかけたもので、保育所設置の願いはそれこそ切実だった。
42年12月の宮山台入居開始を皮切りに、44年に竹城台、45年に若松台と、ニュータウンの入居がどんどん進んだ。しかし、保育所はといえば、竹城台の私立こひつじ保育園(46年4月開園)1か所だけで、それも入園待機者がふえる一方。入居のピッチに市の福祉行政が追いつかず、保育所建設は後手ゝゝに回った。
「設置の会」の陳情は、この1回だけでなく、46年9月の補正予算編成に向けて13回も陳情。また、宮山台校区連合会でも請願運動や陳情を展開。これらの根強い運動で、市立の泉北第1保育所(宮山台保育所)は47年5月、第2保育所(若松台保育所)は47年9月にやっと開所にこぎつけた。しかし、内容面ではまだまだ不十分で、0歳、1歳などの乳幼児らは定員からはみ出し、若松台のママさんらは団地集会所で自主的に共同保育するなど、急場をしのいだ。
10年後に、やっと各住区に1園
宮山台や若松台の保育所設置・内容充実を求める運動はその後、三原台や晴美台にも波及。開発当初のプランどおり、ニュータウン各住区に1か所ずつの保育所(合計16か所=内訳は公立5、私立11)が揃ったのは55年のこと。
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1989年6月8日号記事に加筆。過去、本紙で掲載された泉北の出来事を、随時連載します。(「泉北コミュニティ」2019年3月14日号)
私が深く見知ってきた、障害(※障害をもつ当事者たちの選択を尊重し、”健常”者が好んで使う「がい」は用いない)者の自立生活運動も、まさにこんな感じだった。
2018年11月のオープン以来、メディアの取材と露出、行政・事業者・大学関係者の視察が過熱している「やまわけキッチン」にしても、リアルに自分たちの地域にも必要だと思ったなら、(行政・事業者・大学関係者に”視察”にばかり行かせるのでなく)住民自らが行って学んで、求めて、つくればいい。
高齢者福祉施策が足りないのなら、自分たちで運動して、手に入れて行けばいい。
豊かになった日本が、発展途上国で多くのコストをかけて展開してきた「開発援助」が狙ったのは、まさしくここに描かれていたような、個人と地域のエンパワメント=開発ではなかったか。
なのに、それから半世紀近く経ったいまなぜ足元の地で、半世紀前に見たようなことを再び見なければいけないのか(高齢者施策に関しては、未だまみえず)。
地域(まち)や会社(組織)、国、時代に、自らの幸せを委ねるのは、本当に危険だYO!(´・ω・`)
私たちの多くは、そこと無縁には生きていけないけれど、いつまでも紅族(~してくれない)、星組(~してほしい)に属していると、お膳立てされた”舞台”から死ぬまで降りてこれなくなるぞ。
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