まだ「まちづくり」で消耗してるの? と言われないために~④
世界的ベストセラーとなった、ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』(河出書房新社、2016年)の中に、人類が農業革命を起こしたというよりは、穀物が人類を家畜化した――小麦が繁栄するために、自らの世話を人類にさせ、人類の自由はかえって奪われた――という下りがあります。この説明は多くの読者の興味を引いたようですが、私は、「これは、まちと人の関係にも言えるかもしれないなあ」と思ったものです。つまり、まちが自らを延命させるために、イベントや何やらで、人を使っているのではないかと。ちょうどその頃、まちの小さな本棚と本を通してつながりを生む、「まちライブラリー」を提唱する礒井純充さんとの対話を通して、「良いまちを作れば、そこに住む人が幸せに生きられる、ということはないよ」と教えられました。どんな過疎地でも、そこが自分の生きる場所だと思って幸せに過ごしている人はいるし、どんなに賑やかな都会でも、不遇をかこっている人はいます。つまり、まちと幸せは関係がない。まちの繁栄のために自らの時間と自由を注ぎ込み、にもかかわらず幸福度は下がっているかもしれない自分は、まちの家畜になっているのではないか、そう気づかされたのです。古くは「社畜」に始まって、家畜としての生き方は日本の男性にはなじみ深いものですが、それを嫌がって企業に就職しなかった自分が、結局はそうなっている可能性に気づいたときには、「ああ、大きなものの引力って、本当に強いんだな」と思わされたものです。
私はそうだったけれど、Aさんはどうでしょうか。Aさんの悩みにも、たぶん通ずるところがありますよね? だとしたら、私たちは、まちに住み、まちをより良くしながらも、まちの引力にあらがい、まちの家畜、イベントの奴隷にならないために、いったいどうすればよいのでしょうか。それは、もはや「まちづくり」ビギナーとは言えない私たち皆の、共通した課題ではないかと思うのです。
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