私たちが問うべき価値は、「自由」と「時間」

『非営利組織のマーケティング戦略』(1971年)を著したフィリップ・コトラーは、ピーター・ドラッカーとの対談の中で、

マーケティングについてのいちばん短い定義は、「ニーズを満足させること」というものです。「価値を加えて」と入れればもっとよいと思います。

と述べる(P.F.ドラッカー『非営利組織の経営』2007年、ダイヤモンド社、p.84)。


泉北において、また大学において、その辺りにはいったいどんなニーズがあるのだろうか? どんな価値が高いものなのだろうか?(相手によって低くしか評価されない価値を提供しても、ほんと意味ない)としばらく頭の中を転がせていたのだが、そこで思いついたのは、それは果たして、「時間」と「自由」ではないか? ということだった。


教育哲学者・苫野一徳は、「教育」の定義を、

各人の<自由>および社会における「自由の相互承認」の、<教養=力能>を通した実質化

と表現する。

最近になって、この言葉が自分にようやく馴染んできて、「ああ、私の関わっている大学のようなところであっても、これは本当に、その通りだなあ」と思うようになった。(あともう一つ、私が自分を結婚という制度に自分を易々と押し込みたくない理由も、そういうことなんじゃないかと思った。つまり、自由を相互承認したい、そしてそれを、(過去のある時点でお上に届け出た契約によらず)日々更新される主体的な選択と、日々交わされる”ケア的なコミュニケーション”を通して、実質化したいと考えているのではないかと。…余談です(笑)。*'ω'*)

現代にあっても、また今後出現するAI(人工知能)時代にあっても、一人の人間が手にすることができるもののうち、「自由」の価値は、相当に高いだろう。


そしてもう一つ、価値が高いのが、「時間」か。

5月31日放送のカンブリア宮殿で、ウエルシアホールディングスの池野隆光会長が、「ライバルは(ドラッグストアの)マツキヨではない、(コンビニの)セブン-イレブンだ」と発言していて、こりゃすごい、さもありなんと唸ったものだ。

教育業界も、娯楽業界も、はたまた飲食業界であっても、その最強のライバルは業界の中にはおらず、むしろ「スマホ」だと言っていい時代に、私たちは生きている。そこで何を奪い合っているかというと、「時間」だ。

今後のAR(拡張現実)社会にあっては、それらの業界を外界から良くも悪くも守っていた壁は一気に低くなって、「ぜんぶ団子」の状態で「消費者」の「時間」を奪い合う構図になるだろう。


浜矩子が以前、「ビッグイシュー日本版」の連載記事の中で、「シェア」流行りの世の中だが、マーケティングにおける用法を見ればわかる通り、それはすぐれて(プレーヤー間でのシェアの)「奪い合い」に転化しがちだ。だから、そこには「ケア」の視点が欠かせず、(単なるシェアではなく)「ケアリング・シェア(ケアしあうシェア)」である必要がある――という話を書いていた。


社会に生きる個人のニーズに、自由もしくは時間という価値を加えて応え、ケアしていきたい。

そこに、私の活きる価値(=”活路”か?)があるだろうし、泉北にしろ、大学にしろ、生き延びる道なんじゃないのかなあ・・・?(ΦωΦ)

泉北コモンズ(仮)

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