本当の百姓
先日、「私はこれまで、いいまちを作れば、人を幸せにできると思っていました。でも、そうじゃない。まちは、人を幸せにはできないのです。組織も、イベントも、人を幸せにすることはできない」と書いた。
今日は、その先に気づいたことを少し。
「終わった/抜けた後になって初めて、それが何であったかがわかる」ということは、よくある。
私は、NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に出てくるような人たちが、なぜ未だに(象徴的に言えば)“おばちゃんの手術をしている”のかが、わかっていなかったと思う。
すなわち、以前の私は、「それほどのスキルとネットワークを持ち、それだけのポジションについた人であれば、目の前の一人を助けることに時間と人生を費やすよりも、自らと同じ仕事ができる人を増やし、それを可能にする仕組みを世に広げる(=横展開する)方が、世の中のためになるのではないか?」と思っていたように思う。
でも、それは違うのだ。ああいう人たちは、世の中のためになろうと思ってそういう仕事をしているわけでは、根本的にない。むしろ彼らは、”目の前の(顔と名前を持った)何とかさんを治すこと”こそが、医師としてのアルファでありオメガであること、また困難の渦の中にあって、自らのモチベーションを高いレベルで維持するための唯一の道であることを、半ば本能的に知っていたのではなかったか。
彼らが、自らと同じ仕事ができる人を増やし、それを可能にする仕組みを世に広げる行為をしているのは、それが目的なのではなく、「他の誰かが、自らと同じように、目の前の何とかさんを救えるように」という、ただそれだけではなかったか。
こういうことに気づいてみると、同じものがまるで違って見えて、「ああ、私は赤ちゃんみたいだなあ」と思えて、とっても興味深い。
皆さん、外側は同じように見えるかもしれないけれど、中は違う人間が入っていますよ!(๑˃̵ᴗ˂̵)و
宮本(常一)は翌15年の秋にも(渋沢)敬三と一緒に田中梅治を訪ねている。このときの旅は、前記の左近熊太翁のときと同様、敬三を田中に引きあわせるための旅だった。
田中の挨拶がすみ、階下におりるのを見送ると、敬三は、「田中さんは実に古風な人だね」といった。宮本が「どうしてですか」とたずねると、敬三は、
「あの人はね、いま挨拶したとき、手をかるくにぎって、手の平の方を内側に向けて手をついたよ。普通の人なら手の平を畳につけて挨拶するだろう。律義で古風な人の証拠だよ。あの人の頭の中には古い知識が正確にしかもギッシリつまっているよ。引き出して記録しておきたいものだ。大した人だよ」といった。宮本はあらためて敬三の人をみる目の確かさに驚嘆させられた。
「あの人はね、えらい人だよ。自分の学問をちっとも鼻にかけていない。本当の百姓だよ」
(佐野眞一『旅する巨人』文藝春秋、1996年、pp.154-155)
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