人の消費とどう向き合うか~「つながる10days」と「もがいた10years」を越えて①

・・・というのが、現時点で私たちがざっと考えた、たたき台ですが、最後に、私がこの1週間に経験した個人的な変化についても、少し話しておきたいと思います。


【10年の課題】

これまで私が取り組んできた課題の一つは、人の消費とどう向き合うか、でした。およそ10年の間、個人としても組織としても、地域福祉、まちづくり、教育といった場にあって、人やイベントの消費、もしくは両者への依存という問題を乗り越えることについて、ずっともがいてきました。より正確に言えば、これらの問題を、仕組みによって解決していけないかと思っていたし、何とか解決していこうとしていました。


しかし、あらゆるところで問題は噴出していて、いわば堤防の裂け目に指をつっこんで、漏れ出る水をひとまず止めておくので精一杯。身動きはとれないし、途方にも暮れるし、そして自分の働きも中途半端。このままではいかんし、どうにかしなきゃいけないんだけど、これ、どーするよ!? という自他への危機感が常にありました。


【少し詳しく言うと】

これだけではほとんど何も伝わらないでしょうので、もう少し詳しく説明します。地域福祉の世界において、とくに私が深くかかわってきた、特定非営利活動促進法(1998年施行)にもとづくNPO業界(しかも零細な団体)においては、設立後に経過した年数分、メンバーの平均年齢もそっくり上がっている組織がとても多い。設立時の平均年齢が50代前後だったからいいものの、設立期以来のリーダー層の交代が遅々として進んでいないことも合わせると、あとわずか10年後にはどうなるか、そのときの地域福祉がどうなるかを考えると、ものすごい危機感があります。


これはなぜか。それは、この種の組織と事業が、人を消費し、とりわけリーダーたちに過度に依存しているからだと理解しています。多くのリーダーたちは、(本来はもっともその働きを理解し、応援してもらえる仲間であるはずの)自らの家族から、「どうしてそこまでやらなきゃいけないのか? なぜあなたがそれを引き受け続けないといけないの?」と問われ、ときに辞めることまで迫られるような働き方をしています。そんなリーダーを見ているメンバーたちは、「とてもあの人の代わりはできない、あの人ほどの“犠牲”は自分には払えない」としり込みし、結果として、組織の新陳代謝が進まないのです。


本来であれば、リーダーたちは、ある程度の年数が経てば、それまでの仕事を後任に任せ、また新たな事業や組織を立ち上げたりして、社会課題の解決や、よりよい社会の実現を加速していくことができるはずです。ビジネスの世界におけるこの種の代表的な「学校」として、(株)リクルートホールディングスが挙げられますが、もし、地域福祉やNPO業界に、リクルートのような組織と新陳代謝が存在したならばできたであろう、社会への成長人材の輩出が、この世界では遅々として進んでいないのです。現実には、草創期のリーダー層がその場に縛り付けられているため、社会課題は急速な多様化と拡大を続けるのに、担い手側の人と組織の供給が追い付いていない。そして、リーダーは消耗を続け、ときに病み、この業界と自らの取り組みから退出さえしてしまうのです。


これまでの私が主戦場としてきたのは、「地域福祉を通したまちづくり」の領域ですが、その限定を外した「まちづくり」の世界においても、似たような構図を見てきました。世間では、年間を通じてさまざまなイベントが催されますが、そのほとんどが(来場者によって)消費される対象になっていることは、よく言われます。運営側にとっては、イベントの運営は大変ですが、形を見せることができるのと、限られた日だけ世間に登場すればよいので、とてもラクです。私たちは、その分かりやすさに引かれてイベントを打ってしまい、そして、安心するのです。結果、イベントのために人が動かされるようになり、幅広い担い手を消費し、そして消耗させていきます。来場者から消費され、担い手をも消費してしまったイベントは、その生みの親である組織から、自らを催す体力を回復させる機会までも奪ってしまった結果として、自らを終わらせることも少なくありません。無くなっても誰も困らない、むしろ担い手は喜ぶ、そんなイベントを、私たちはたくさんやってきてしまっています。


私はかつて、ある団体の立ち上げに際して、「自分たちはイベントを行わない団体である、と会の規約に謳ってはどうか(そうすれば、イベントではない何をしようかと、自覚的に考えるだろうから)」と提案したことがあります。最近は自らに対して、「イベントよりも、成熟した日常のマーケットを」という言葉を課してもきました。私は何も、イベントを目の敵にしているわけではありません。ただ、それによって人と組織が消費・消耗されることについて、自らの経験と立場上、能天気ではいられないのです。


こういった構図は、比較的最近になって深くかかわるようになった、教育の世界においても、変わらず存在しました。学生は、日々の授業や就活イベントなどをただ消費してしまっており、また教職員も、逆側からそれらを消費してしまっていました。人に仕事がぶら下がっているために人を動かせない、もしくは動かしてしまうとたちまち元の部署が支障をきたすという問題も、同じくあったのです。


以上のような、「人の消費とどう向き合うか」という問題に対して、私は、それを「仕組み」によって解決していけないかと考えていました。人に消費されず、人を消費せず、人に過度に依存しない仕組みであれば、それによって仕事を分担して進めることもできるだろう。休みやすく、交代もしやすく、さらに組織自身も私物化されにくく、腐敗しにくさえあるだろうと。(つづく)

泉北コモンズ(仮)

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