イベントよりも、成熟した日常のマーケットを
この言葉は、最近の私が大事にし、また私を律しているものの一つだ。
もとは、「これからはフェスティバルよりも、成熟した日常のマーケットを」水野俊弥さん(後編)のタイトル文に「あ!」と思って、そこに私なりの理解と位置づけをしたのだけれど(なので、その意味合いは、オリジナルとはちょっと違う)、この言葉は大事なことを教えてくれると、つくづく思う。
「フェスティバル」には、もとは祭典、祝祭、お祭り騒ぎという意味が、また「イベント」には出来事、行事、催し物という意味があるらしい。
日本の生活協同組合の組合員たちは、自らを「消費者」とは言わず、「生活者」と呼びならわしてきた。
その意味することは、今の時代も重要で、むしろ今なら「生活プロデューサー」と言ってもいいかもしれない。(セルフプロデュースの時代だからね…。๑>◡<๑)
他方で、消費される対象としてのフェスティバルやイベントについては、なかなか難しいものだなと思う。
もうすぐ鉦(かね)の音が聞こえ始める、この辺りのだんぢり祭りについても、実に数カ月前から(というより1年前から)準備が積み重ねられて当日を迎えるわけで、当事者にとっては、それは「消費」する対象ではけっしてない(そして、それを消費しにくる、見物客のために続けられているわけでも、むろんない)。
「自走する成熟したマーケット」によって支えられた活動やまちを、創っていきたいなあ。
・・・ま、その前には、未熟な期間があるんだろうけどさ。
いつまで未熟な期間を過ごす? 私たち?
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