ゆとりがあるから/ないから、助け合う?
「ビッグイシュー日本版」295号(2016年9月15日号)のコラム、浜矩子「新・ストリートエコノミクス」第24回に、こんなことが書かれていた。
ゆとりなき時代の人助け
「この国では、いつでも不運な人々を歓迎して参りました。それが我々の誇りです。これからもずっとそうして参ります」。推理小説『葬儀の後で』("After the Funeral'')に出てくる一節だ。ご存じ、かのアガサ・クリステイの作品の一つだ。小さくて偉大な名探偵、エルキュール・ポワロ物である。(中略)
老執事の言葉は胸を打つ。だが、少々、引っかかりもする。微妙に上から目線だ。英国は偉大だ。英国は不滅だ。世界の不幸なる者たちよ、英国の懐に来たれ。そこはかとなく、こんな雰囲気が漂う。この小説の初版刊行年が1953年である。設定時点はこれより少し前だろう。過ぎ去りつつあるとはいえ、古き良き大英帝国の感性がまだまだ生きていた。特に、この老執事のような経歴の人々の中には。
この同じ人が、今日の難民問題に当面していたら、どう反応するだろう。上記の発言と同じゆとり感覚で、「難民よ、来たれ」と言えただろうか。ここが肝心なところだと思う。自分は不運から守られている。だから、不運な人々に手を差し伸べる。自分にはゆとりがある。だから、そのゆとりの中から、ゆとりなき人々を支援する。これはこれで立派な心がけではある。だが、この感覚だけでは、グローバル時代を不運から守りきれないだろう。
みんな、ゆとりがない。それが国境なき時代の特性だ。だからこそ、助け合う。それができるか。我々の知恵と魂が問われる。
ああ、面白いな、と思った。
たぶん、私たちの前には、3つくらいの方法というか、方向性がある。
1)ゆとりがない中で助け合っていく、新しい形を見つける(これが、浜さんの言っているもの。※”発展途上国”ではこれが通常見られる形で、その意味では、新しいものではない。)
2)ゆとりを作(って、従来のような助け合いを継続す)る
3)助け合いをビジネスにしてしまう(と、ゆとりが無くても、それまでの助け合いが別の形で回る)
・・・そんなことを考えていたら、鷲田小彌太のこういう文章を思い出した。
なぜ福祉活動をやっている人が、あまりボランティア活動をやらないのでしょう? これは、すでにボランティアをやっているからなんですね。福祉活動は、かなりボランティア的な要素が含まれている仕事です。福祉活動をやっている人は、その仕事をやりながら、もう一つボランティア的な仕事をやる場合に、困難さが生じるということは、知っておいてください。
しかし、もう一つ質の高いボランティアとは、未来を見据えた、福祉全体の問題と自分とのかかわりの問題になってくると思います。あなた方がそれに思考と行動の両面で回答を与えてゆくことを強く期待したいと思います。(鷲田小彌太『働かない身体』2005年、彩流社、p.218)
そう、私たちは、ゆとりがあるから/ないから、助け合うんじゃかったよね?
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